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橋本紡「流れ星が消えないうちに」感想

──秋の空が、なぜ高いのか知ってる?

 

同作者「半分の月が昇る空」に出てくる台詞だ。細かいところは違うかもしれないが、概ねそんな言葉だった。

もう何年も前に読んだ本だから、内容なんて殆ど覚えてなくて朧気だけれど、その言葉は今でも心に残っている。

橋本紡さんの小説には、空に関する文章が頻出しているように思う(と言っても3作品ほどしか読んでいないが)。それは、秋の空だったり、半分の月が昇っていたり、ただ何となしに空を見上げたり──

 

本作品でもやはり星や月、タイトルにあるように流れ星などが本筋に絡んでくる。

橋本紡さんにとって空を見上げることは大切な意味があるのだろう。そして、それは登場人物にとっても同じことで、奈緒子、巧、そして加地にとっても大きな意味を持っているように思う。

解説で重松さんがこの物語が始まる前の三人の関係は三角形で、その枠内で完結していた、つまり三人だけで話が完結し、行き止まってしまっているところを、三角形の外角部分との関わりで物語が進行し、そして奈緒子と巧が前へ進む物語だと述べている。

物語の序盤での関係性は加地の右手と奈緒子の左手が手をつなぎ、加地の左手と巧の右手が手をつなぎ、そして奈緒子と巧は加地を挟んで繋がっている。それを巧の左手と奈緒子の右手が繋がるようになるストーリーだといったところか。

ネタばれになるのであまり詳しくは書けないが、奈緒子と巧にとって加地はどうあがいても無視なんてできない存在で、前に進むにも停滞するにも避けては通れない人だった。

この物語はきっと線から円になる物語。

通じ合えているはずなのにどこか互いに一方通行な関係が、三人が手を繋ぎ円になることで初めて本当に心が繋がるお話。

 

 さて、真面目ぶって書いてきたが、疲れたので、ここからは書き散らしていくこととする。頭に思い浮かんできたことを、構成とか気にせず書き連ねるから読みにくいかもしれないが、ここは1つ免じてほしい。

 

まず、この小説は登場人物が尽く等身大だ。どこか浮世離れした、こんなの実際にはいるはずがないっていうライトノベルのような人物性じゃなくて、探せばどこかいるような、それこそ公園とかのベンチで寛いでいる人たちみたいに、生きている人の人生を切り取ったような感じだ。

リアリティに溢れている……というか何というか。ひょっとしたら友達の友達にいるかもしれない、みたいな妙な現実味がある。

 

そして、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」。この本にもほんの一文だけれど登場する。

橋本さんやっぱり「銀河鉄道」好きなんだねぇ、と思わずにはいられなかった。

と言うのも、先に上げた「半分の月がのぼる空」にも「銀河鉄道の夜」がちょくちょく登場するのだ。そこでは、芥川と同じくらい物語のキーを握っているのだけれど、ここでは物語の演出、ほんの味付け程度に登場した。それでも、かの本から「銀河鉄道の夜」やその他宮沢作品を読み始めた身としては懐かしきや嬉しさを感じ得ずにはいられなかった。

 

次。ヘッセの「車輪の下」。ヘッセと言えば誰でも知っている作家だ。中でも「少年の日の思い出」を知らない、という人はいないのではないのだろうか。

──そうか、つまり君はそういう奴だったんだな

エーミールの台詞。語感が良くて、覚えている人も多いと思う。

ヘッセはつまりそんな人。

この作品が今回の話に中々関わってくる。

車輪の下」は残念ながら読んだことがなかったので、そのまま素直に文章を受けとることしかできなかったのだが、もし、読んでいたらまた別の受けとり方ができたんだろうな、と思う。

たぶんそのうち読みます。


なんて、この記事をだらだら書いているうちに書店で発見したので、買ってきた。現在読書中なので、読了後そのうち感想を述べようと思う。

 

次。作中の奈緒子と妹の会話について。

恋談義で二人は手が綺麗な事ははずせないとのこと。たしかに手が綺麗で細長いと色気があって魅力的だよね。わかるわかる。

ちなみに私は背中から腰を通り太ももまでのラインが綺麗なのが大事かなって。

脚が蠱惑的だと尚良。


最後に。

作中にある言葉から。


──思いは巡る。誰かの中に息づいていて、ふとしたことから人から人へ受け継がれていく。

それはきっと思いだけじゃなくて、形としても受け継がれていくものなのだ。




次はそのうち。

ロリータか嵐が丘あたりの感想でも書き散らします。



流れ星が消えないうちに (新潮文庫)

流れ星が消えないうちに (新潮文庫)

  • 作者: 橋本紡
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/06/30
  • メディア: 文庫